日本を呪縛する「オリンピック」の呪いは解けるのか【仲正昌樹】
■コロナ終息に向けての責任を誰も取ろうとしない日本とは
先ほども述べたように、全国民を対象にしたワクチン接種を進めていながら、どういう状況をもってコロナ禍終息とすべきか、自らの見解を示そうとしない政治家たちの姿勢が、不信感を増大させている。不信感が強まるほど、終息に向けてのリーダーシップは取りにくくなる――変異株はやはり危険だと強調して、徒に事態を長引かせるだけの見せかけのリーダーシップは取りやすくなる。
五月二十七日の記者会見で、菅首相は、記者団からの質問に対して、「分科会の専門家のみなさんに諮ったうえで、判断します」、という意味のない返答を繰り返した。宣言を再延長した場合の責任についての質問に対してさえ、「いずれにしろ明日、専門家の、委員会の皆さんにお諮りするわけでありますから、お諮りした上で、意見を伺って、判断するということです」、と答えている。
疲れて朦朧(もうろう)として、質問に答える余裕がなくなっていただけかもしれないが、そういう時にこそ、普段からの心構えが露呈してしまうのかもしれない。首相である以上、「専門家の意見を聴いて情勢判断したうえで、私の責任で決定します」と言うべきだ。そのうえで、オリンピックを挟んでのコロナ禍終息に向けての戦略と、大体どうなったら終息と政治的に判断するつもりか、見通しを語るべきである。
言質を取られたくないせいで、責任転嫁と取られてしまう発言を繰り返していたら、自分の頸を絞めることになるだろう。野党側も、終息への道筋を示さないまま、政権のやることを全て否定するだけだったら、積極的な支持層を増やすことはできないだろう。誰も終息に向けての責任を取ろうとしないと、本当に、日本はいつまでも「コロナ」恐怖に憑き纏われ、衰退の一途をたどることになろう。
少し前まで、現代社会の過剰な「医療化」を批判する言説がしばしばマスコミでも取り上げられていたが、コロナ禍でそうした議論が忘れさられてしまった感がある。自分が健康か不健康か、更なる治療が必要かどうか、最終的に決めるのは患者本人である。ある程度まで、不調があっても、通常の生活を送るかどうかは本人しか決められない。日本社会がコロナにどう向き合い、どこで普通の生活に戻るかは、政治的に決めるしかない。決めるべき人が、医者に、「一〇〇%大丈夫ですか?」と聞き続けたら、いつまでも“治療”は終わらない。
文:仲正昌樹(哲学者)